【Interview】なぜ今、セルフドキュメンタリーを探るのか〜newCINEMA塾  原一男監督10,000字インタビュー


CINEMA塾で、戦後民主主義を洗い直す!?

——<私>を捉えるベクトルが変わった原因を探ろうとする時、監督は“戦後民主主義”という言葉をキーワードのひとつに上げています。これは、どういうことですか。

 『極私的エロス』で考えた70年代的な<私>というのは、さっき言ったように全共闘運動に影響されたんだが、そもそも全共闘運動というのは、戦後民主主義のある意味成熟…とまでは言えないが、いちばん実をつけた運動だったと思っていた。その影響を受けて、俺らは映画を作り出したんだ、と。しかし昭和から平成になって、種が成熟して実となって、次の世代に育ていこう、というプロセスの中で、それが種子として生命力のある豊かなDNAを持っていたかというと、どうもそのDNAがいい資質を持っていないかもしれない、と思えてきたんだよ。何でこうこうなっちゃったんだ?と思ったら、もう一回、元からたどってみるしかない。そういう洗い直しをやらないといけないな、という気がするんだ。

——今回のCINEMA塾は、「戦後民主主義の洗い直し作業」の一環である、と実際の作品作りを通して、その必要性を意識した部分などはありますか? 

 そうだな…。70年代、映画を作る時に武田美由紀にそういう意識が強くて、俺も全くその通りだと思っていたんだけれども、あのころ<生活者>という言葉があって、<生活者>というような生き方や価値観が、嫌で嫌で仕方がなかった。それを壊したい、と。

<生活者>というのは、自分と自分の家族の幸せを求める、という考え方。それに対して、自分と自分の家族の幸せよりも、もっと多くの人の幸せの為に、という価値観があったはずなんだ。そういう生き方の具体的なイメージとして<表現者>があって、生活者ではなくて、表現者になりたい、という意識があった。

<表現者>というのは、これまで持っていた価値観にNOを言うテーマを持っている人、あるいはそういう作品を作っている人。それが『さようならCP』の人たちであり、『極私的エロス』の武田美由紀であり、『ゆきゆきて、神軍』の奥崎さんであり、『全身小説家』の井上さんであったと。ところが平成になると、そういう人がいなくなった。意識的、無意識的にどこを探しても、いない。厳密にいえば、うちらの好みに合うような、というのがひとつつくんだけど。何でこんなにいないんだろう?って。

そこで<表現者>とは何だ、<生活者>とは何だ、ということをもう一回考え直そうとすると、奥崎さんも最初から表現者だったわけじゃないことに気付くわけ。戦争に行くまでは貧しいところに育って、戦争では戦友が1000名以上死んだ、という過酷な状況を通過したから<表現者>という生き方を選んだわけじゃんか。つまり、誰もが<生活者>の部分を持っていた。じゃあその、今も生活者として生きている人たちはどうなんだ?と考えるようになった時、たまたまアスベストの人たちや、水俣の人たちに出会っていったんだ。

——原監督が今、製作中のアスベスト問題や水俣の映画にも、そのような<生活者>が国家と闘う様子が出てきますね。 

原 
正直、そういう人たちを撮っていると、もっと自分の表現を持ってもらいたい、という欲求不満が募るんだよ。俺らは70年代的なノリで映画を作り始めたから、どうしても<生活者>的な価値観を否定的に捉えてしまうところがあるからね。

ところが、自分と家族の幸せの為に生きるという生き方を、時代の方があまり許容しなくなってきた。昭和の時代はモノが豊かで、なんとなく幸せ、という幻覚をみんな持っていたから目立たなかったんだけれども、平成になって経済的な豊かさがはがされていくと、戦前からずっと変わらない、民衆を抑圧し弱者を収奪する権力の構造が、より露わになった感じがしてきた。その中でもいちばん弱いところを狙い撃ちして水俣病の問題は起きたし、アスベストの問題もそう。

じゃあ、それに対して<生活者>と言われている人たちはどうすればいいのか。水俣もアスベストも、裁判闘争というかたちで権力と喧嘩するようなことをやるんだけれども、所詮、裁判闘争というのは、権力がしつらえた枠の中の喧嘩なのではなかろうか、という意識が、俺の中で消せないんだよ。

その枠の中でみなさん喧嘩をしているわけだから、カメラを回していて、じれったくてしょうがない。でも当面はそれでやっている、というジレンマを持ちながらつきあっている。その状況に納得しているわけじゃなくて、こちらには、本当にそれでいいのか?という煮え切れない思いがあるんだが、カメラを向けた人たちがその枠を受け入れて動いている限りは、こちらが切歯扼腕したところでどうにもならんじゃん。

ただ、そのいらだちや不満はきちんと持ち続けなくてはいけない。そうなると、理論化していくしかないんだよな。その為にも、戦後<私>という意識がどう変容して、成熟したのか、しないのか。今後どうなればいいのかを、今回の講座を通して自分なりに考えてみたい。それで勉強しなきゃあかん、って思ったんだよ。

 

そして今回の「new CINENA塾」 

——そういう流れがあったんですね。今回のCINEMA塾の作品選定の基準は何ですか。

 そんなに難しく考えたわけではなくて、純粋に興味がある、とか、やってみたい、ということだよ。今回選んだ映画は、時代の中で受け入れられた作品ばかりだからさ。

——海外の作品を取り上げる回も、3回ほどありますね。

 海外のセルフの状況にそこまで詳しいわけではないんだが、7、8年前、コペンハーゲンの映画祭で、セルフドキュメンタリーを巡るシンポジウム、というのに呼ばれた時に「今、自分たちの国では、ほとんどの人がセルフドキュメンタリーを作る流れになっている。そこで『極私的エロス』を作った先駆者である原さんをお招きした」と言われて、へえ、そういうもんかい、と思ったんだ。70年代はセルフという方法そのものが珍しかったけれども、今や手法を超えたひとつの空気みたいな感じで、世界中にセルフが定着している感じがする。韓国のキム・ジナの作品も、日本の状況と似ているところがあるし、イスラエルのモグラビに至っては、日本から遠く離れたところで、どうセルフをこなしているのか、という興味があるのね。

——昨年の中国インディペンデント映画祭で『治療』が日本で上映された呉文光(ウー・ウェンガン)と、2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された章梦奇(ジャン・モンチー)の『三人の女性の自画像』も入っていますね。※2

原 呉文光は、はじめ小川紳介さんの影響を強く受けたんだけれども、俺の『ゆきゆきて、神軍』なんかを見ながら、だんだん自分の持っている資質が、小川さんのやっていることとは違うんじゃないか、と思い始めたらしいんだな。それは世代の違いだよ。それで2008年、俺が中国に呼ばれて、4日間、俺の作品を見せながら、彼なりにこういう方法があるんだよと、いろいろな人に話をしてくれたことがあった。彼も中国でCINEMA塾みたいなことをやっていて、その中で若い人たちが、セルフを明確に自分の方法論に採用して作品を作っていた。そこで彼自身がセルフを目的意識的に作った『治療』と、彼の弟子と言われる章梦奇の『3人の女性の自画像』を選んだんだ。

——日本の作品に目を転じてみると『監督失格』(2011 監督:平野勝之)などがあります。

 プロデューサーの庵野秀明と同郷(山口県宇部市)なんだよ。同郷のよしみにこだわるほどセンチではないんだが……彼とは十数年前『ラブ&ポップ』(1999)の頃に話し込んだことがあってね。この『監督失格』では、どういう思惑を持ってドキュメンタリーのプロデュースをやろうとしたのか聞いてみたい。もちろん、平野の過去の作品もいろいろ観てはいるけどね。

——『ファザーレス』(1997)の村石雅也さん、『home』(2001)の小林貴裕さんなど、過去にセルフドキュメンタリーを撮った人々の「その後」が登壇するのも、貴重な機会ですよね。

 若い連中は、もう一回、自分が生まれ変わらないと撮れない、という思いもあるんじゃないのかな。次を撮りたいと言いながら、そこまで動ききれていない人もいる。それが、セルフとは何だ、という問いでもあるよね。撮った人も撮られた人も、作品もその後の人生も、うまく行く人、行っていない人、全部抱えてどういうことか考えてみる、ということだよ。

実は、第1回目の『極私的エロス』のゲストに、俺の武田美由紀との間の子ども、零を呼ぼうとしたけど、断られた。子どもには子どもの人生があるから、嫌といわれればそれまでだよな。親の生き方を、子どもは必ずしも受け入れていないんだ、と思うしかない。

親は映画を撮る時は、自分の思いを中心に考えていくのだから、子どもの為といいながら、自分の為の道具として子どものことを考えている、ということさ。そういう自分の生き方を責めたりはしないけど、時間が経って、ふと子どもの方から親はどう見えるのだろうか?と考えたりすると、あれほど武田美由紀がこだわって壊そうとしたものを、息子の零が身につけちゃった。そんな感じがするんだよね。皮肉だなあ、と思って。俺にとっては逆襲されている感じがして、苦いんだよ。

※1:当サイトの前身であるメールマガジン『neo』にて2003年に交わされた論争。
※2:呉文光と小川紳介の関係は、『neoneo 02』を参照のこと。


 【プロフィール】

原一男 (はら・かずお)

1945年山口県生まれ。東京綜合写真専門学校中退。71年、田原総一郎作品『日本の花嫁』に制作アシスタント兼リポーター役で出演。72年、小林佐智子と共に疾走プロダクションを設立。同年、ドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。74年、『極私的エロス・恋歌1974』発表後、撮影助手、助監督を経て、87年、『ゆきゆきて、神軍』を発表。日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ受賞。94年『全身小説家』キネマ旬報ベストテン日本映画第1位。06年より大阪芸術大学映像学科教授。

【newCINMA塾 開催情報】

東京・アテネフランセにて 2014年4月26日〜 月1回開催
開催概要:【News】4/26いよいよ開講! new CINEMA塾『極私の系譜〜映像の中の欲望(わたくし)たち〜』
new CINEMA塾 ホームページ:http://newcinemajuku.net/index.php
クラウドファンディング実施中!:https://motion-gallery.net/projects/newCINEMAjuku